川口麦味噌の歴史

川口では江戸時代後期より南平地区(元郷・十二月田・領家地区など)を中心に地元の麦を使い麦味噌つくりが盛んでありました。往時には市内に7・8蔵があり、出荷量も全国上位を占める実績がありました。

また、昭和40年代までは市内でも数蔵で製造されていました。

芝川がささえた生活(参考資料見出し)

南平の味噌づくり

 

 南平地区の地場産業であった味噌醸造業は、200有余年の歴史があります。 

 明治9(1876)年の『武蔵国郡村誌』によると、十二月田村の物産の欄に「味噌12,680斤(7,609.2kg)輸出」と記載されており、村外への販売を目的として行われていました。

 

 この地区で、これほどまでに味噌醸造業が発展したのは、地区内で優良な原料麦がとれたこと、そして江戸(東京)という大消費地に隣接していたことによります。

 

 銘柄には、「モトイー(もといち)」(池田幸次郎氏)・「アズマ一(あずまいち)」(大熊武右衛門氏)・「上田(じょうだ)」(田中徳兵衛氏)・「カー(かいち)」(片野磯右衛門氏)などがあり、最盛時には10工場が操業し、全国的に販売を展開していました。

 

 大正9(1913)年には、田中徳兵衛氏らによって「埼玉味噌醸造組合」が設立され、田中氏はその組合長を務めました。

 

 昭和に入り、戦時体制が強化されると、原料大豆の減産及び大豆の特殊用途への使用で不足が生じたために味噌価格が高騰しました。それに対して、県内の味噌醸造業者は、組合を通して味噌の適正価格維持に努力しました。

 

 戦後、昭和24(1949)年に味噌の統制が解かれると、川口の味噌醸造業者は、原料の確保と販路の拡大を目指して「南部味噌十日会」を結成しました。このころは、8工場で月産51,000貫(191,250kg)の生産量を誇りました。

 

その後、各種産業の発展により、味噌醸造工場も巨額の設備投資が必要となりましたが、将来の需要の伸びも期待できない状勢であったことに加えて労働力の不足が生じ、昭和40年頃にはほとんど行われなくなりました。

 

 

芝川の舟運と河岸場

 

 陸上交通が発達する以前は、最大の輸送力をもつ交通機関は舟でした。芝川筋で、江戸時代からの河岸場は倉田河岸(現:倉田廻漕店)・市兵衛河岸など廻漕問屋の名がついているものです。

 

 江戸時代、河岸場は年貢米の積み出しや味噌・クワイ・レンコンなどの特産物、干鰯、下肥などの肥料の運搬に使われました。また、鍋や釜などをはじめとする各種鋳物製品が消費地である江戸へ送られていました。

 

 こうした鋳物の原料のズク(銑鉄)の陸揚げに河岸場が利用されていました。倉田河岸や市兵衛河岸は、昭和初期まで鋳物の輸送に使われており、川口鋳物業の発展を支えてきました。

 

 昭和の時代、芝川河岸には鋳物材料屋・建築材料商・運送業者の倉庫が多く建ち並んでいましたが、太平洋戦争後、トラック運送に押されて、昭和34(1959)年に芝川水門が改修された後は舟の通行ができなくなりました。そして同36年までには河岸場としての機能は失われてしまいました。